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廉塾ならびに菅茶山旧宅

―廉塾ならびに菅茶山旧宅―

れんじゅくならびにかんちゃざん(かんさざん)きゅうたく

広島県深安郡神辺町
特別史跡 1953年指定

廉塾ならびに菅茶山旧宅-01


広島県神辺町、高屋川沿いにある廉塾は、儒学者、漢詩人として江戸時代後期に名を馳せた菅茶山(かんちゃざん・かんさざん)が創設した私塾である。江戸時代には数多くの私塾が作られたが、多くの建造物が良好に残る廉塾はその中でも最も昔の姿を留めており、郷学としての旧観を今に伝える極めて貴重な遺構とされ特別史跡に指定された。



廉塾ならびに菅茶山旧宅-02

門をくぐるとそこには畑が広がっている

菅茶山の生まれ育った神辺は、山陽道の宿場として賑わう宿場町であった。しかし町民は博打や酒に明け暮れている者が多く、それを嘆いた茶山は学問を広めることで町を良くしようと考えた。茶山は京都へ遊学し、朱子学や古医方などを修め、そして天明元年(1781年)頃、神辺の地に廉塾の前身である黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。




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玄関前に構えられている中門

塾は大いに賑わい、開塾4年後には金粟園(きんぞくえん)という別塾を設けるほどになっていた。寛政4年(1792年)頃には閭塾(りょじゅく)と改称し茶山は塾の経営に専念するようになる。そして寛政8年(1796年)、茶山は塾の永続を願い福山藩に献上、塾は藩の郷校となり、廉塾(れんじゅく)と呼ばれるようになった。また、文化4年(1807年)に起きた神辺大火によって茶山の自宅も全焼したことから、その際自宅を廉塾の敷地内に移している。



廉塾ならびに菅茶山旧宅-04

講堂であった建物

廉塾では貧富や身分の差などにより生徒を差別せず、皆一様に学ぶ機会を与えるという教育方針を取っていた。とは言うものの、教材費と食事代が年4両かかるため(当時の奉公人の一年分の給金よりも多い)、ある程度裕福な家系の者でなければ廉塾で学ぶのは難しかったようだ。漢詩を作るには様々な知識が必要なことから茶山は常に読書を行うよう指導し、また月6回詩文会への出席を生徒たちに義務付けていた。



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塾内には高屋川から水を引いた水路が通る
生徒たちはこれで筆を洗ったりしていた

廉塾の門をくぐると、そこから中門までの間には畑が広がっている。そこで野菜を育て、また畑の脇に設けられた養魚池では魚を育て自給していた。中門のすぐ先は玄関で、その右手が授業を行っていた講堂である。講堂の左側には風呂場や土蔵が立ち並び、茶山の旧宅へと続いている。また水路を挟んだ向かいには槐寮(かいりょう)と呼ばれる塾生の寮舎も残っている。



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講堂の横の濡れ縁および手水鉢

廉塾の中心はやはり講堂であろう。講堂は6畳の2室と8畳の1室が連なっており、それらのふすまを外して学習の場としていた。外側には板と竹を組み合わせたなんとも洒落っ気のあるデザインの濡れ縁があり、そこには御影石の手水鉢が置かれている。この手水鉢は丸と四角の二通りに彫られているのだが、これは水はどのような形の器に入れてもその形を変えて収まる、つまり人は教育によって良しにも悪しにもなる、という意味が込められているという。

2007年11月訪問



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